2016.05.13 Friday

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2013.10.16 Wednesday

卵を生めなくなった鶏〜「廃鶏」と現代の肉食

毎週食材や生活用品の一部を届けてもらっているエルコープ(生活クラブ)で、「ありがとうネおつかれさま鶏〜2年間元気な卵を生み続けてくれた鶏を最後までありがたくいただきましょう。もも肉とムネ肉のお得なセット♪」という企画があった。エルコープで扱っている良質な平飼卵を生む鶏の肉で、通常のもも肉やムネ肉よりもだいぶお買い得になっている。「これは買わねば」とさっそく注文してみた。

エルコープ(生活クラブ)はこうした主婦感覚の教育的取り組みが充実しているのがいちばんの魅力。以前にも「鶏はもも肉だけでできているのではありません!もも肉ばかり注文せずに、砂肝も、手羽も、ムネも、バランスよく注文しましょう♪」という注意書きに「そうかそうか」と思わされたし、豚肉も「いろいろな部位の薄切り肉ミックス〜いろいろな食感がたのしめます♪」というセットがあったりして、肉を注文する者としての心構えを鍛えてくれる。

届いた「おつかれさま鶏」は、さっそくゆで鶏にしてスープをとり、身の部分はから揚げにしてみた。「卵を生まなくなった鶏」だから、きっと硬い肉なのだろうと想像してはいたけれど、その想像をさらに上回る硬さだった。普段食べている肉は何なんだろうと思わされる硬さに困惑した。それでやっと、卵を生まされる鶏の信じられない運命をインターネットで調べてみようという気になったのだ。
ざっと調べてみたところによると、鶏は採卵用と肉用でまったく扱いが異なり、まず、肉用鶏の代表格であるブロイラーは、通常の3〜4倍のスピードで急激に成長するよう品種改良され、生後2か月足らずで出荷され、肉になる。対する採卵用鶏は、まず、卵を生まない雄のヒナを選別し、産業廃棄物として廃棄する。さらに、過密なケージでのつつき合いによるケガを防ぐため、くちばしを切断する(畜産技術協会の調べによると、日本の養鶏場の80%で実施されている)。生後2か月を過ぎると狭いケージに移され(日本の採卵養鶏の95%はケージ飼い)、5か月くらいから卵を生み始め、1年間ほど生み続ける。その後、自然に羽が生え換わる休産期が訪れるが、一部の養鶏場ではその時点でと殺処分し、その他の養鶏場では給餌制限による強制換羽で再度強制的に卵を生ませ、ほとんどが2歳前にと殺される(強制換羽は日本の養鶏場の50%で行われている)。2歳を過ぎても、本当はまだまだ卵を生む能力はあるが、年取った鶏の卵はサイズが大きく、規格に合わなくなるなど、生産効率が低下するため、まとめて「廃鶏」として処分される。「廃鶏」は、硬くてそのままでは食べられないため、ミンチにして加工食品の材料となったり、ペットフードになったりするが、最近は中国からの安い鶏に押され、本当に産業廃棄物として廃棄されることもあるという。

今日の今日までこの壮絶な養鶏の現実を知らずに来た自分にショックを覚える。スーパーや外食産業の安い肉の危険性(しばしば抗生物質などの薬漬けになっているetc)は既に話を聞いており、そんな肉は極力口にしないように心がけてきた。けれど、この血も涙もない鶏の運命は、単にそれを食べる人間の健康への影響云々で片づけられる話ではない。これはもはや、「食べるため」という生の営みの次元を完全に踏み超えている。実際、食料の半分近くが、食べ残しや売れ残りや外食産業の無駄などで、誰の口に入ることもなく廃棄されていると言われており、日々想像を絶する数の鶏が、ごみ箱に行くために殺され、閉じ込められ、くちばしを切られ、無理やり搾り取られているのかと思うと(鶏だけでなく、豚も牛もそうなのですが)、現代における肉食のむごさに吐き気を覚えずにはいられない。

ここ数年間「基本は菜食」の食生活を続けてきた自分だが、それはどちらかと言えば、体のバランスや環境的要素(肉の生産には、同量の野菜を栽培するのの数倍だか数十倍だかのエネルギーが必要となるらしい)を考えてのことであり、一部に見られる「倫理的理由による菜食」については、正直「よく分からない」と感じていた。古来より、肉食とは基本的に殺生であり、必ずしもそれをタブー視する必要はないのではないか、と無邪気に考えてきた。けれど、こんな残酷な食肉産業の現状を知ってみると、今はじめて、「倫理的理由」の意味が理解できる。こんな現実はまさしくモラルに反する。自分だって、そんな肉を食べてこの恐ろしい現実に加担したくない。

エルコープ(生活クラブ)の鶏は、良心的な平飼いの養鶏場で育てられており、上に書いたような酷いこととは基本的には無縁のはずである。でも、それだって、本当は2年を過ぎてもまだまだ卵を生めたかもしれない鶏を殺処分しているという意味では、やはり大量生産・効率追求の食肉マーケットから完全に無縁ではないのだ。「卵を生めなくなった鶏を食べる=いいこと」と思って呑気に「おつかれさま鶏」を注文した自分だが、現実はそんなにシンプルではなかった。

ここ京都では、鹿や猪などのジビエが身近に食される。知り合いでも「基本は菜食でも、野生のジビエはありがたくいただく」という人もいる。たしかに、山でしとめるジビエは上記のようなクレージーな食肉産業とはまったくかけ離れた場所にあり、より「命をいただく」という神聖さに近い。これぞ元祖・肉食とも言えるわけだが、その「殺し方」もやはり一通りではないらしい。一般的には猟銃が使われるようだが、銃についての議論は周知のとおり。なやカフェの主人は、代わりに鹿をわなでしとめるという。「でも、結局は殺さないといけないんですけどね」と彼。「え、銃なしでどうやって殺すんですか?」と間抜けな質問を向けると、「額の部分を鉄パイプで突くんです」。瞬間、自分の額にうずきのようなものを感じる。その生々しい感覚に動揺する。そして、これこそ、現代の日常の肉食が不自然に包み隠してしまっているものなのだと実感する。あまりにも安易に氾濫してしまった現代の肉食。気をつけて選び取って行かないと、生の神聖さからも、食への感謝からも遠ざかってしまう現実に、流されず、可能な限り抗っていかなければならない。日々、自分のモラルをかけて、より良い消費や外食を心がけていかなければならない。

2016.05.13 Friday

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