2016.05.13 Friday

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2013.06.26 Wednesday

環境政策の目指すもの
〜対立構造の哀しみ

日本の地方公務員として環境政策に携わり、アメリカの大学院で環境政策を学び、さらに国際NGOで環境政策に携わり、短いながらも、自分なりにいろいろなことを感じてきた。

まず、小さな町役場にいた4年間に最初に感じたこと。それは―数えきれないほどあるけれど、敢えてひとつだけ挙げるなら―対立構造の哀しさだった。

当時の町には、エコを志向する先進的な人々が保守的な町政を糾弾する、という強い変化の波が訪れていた。「ローカルに生きてみたい」と東京の職場からまったく畑違いの地方公務員に転身した自分は、「オーガニック製品好きの、変な菜食の新人職員」として、たまたま糾弾の矛先のひとつであった廃棄物政策の担当課に配属された。
糾弾の内容は、ごく平たく言えば、「国や県の主導の下、住民に大した説明もせずに、無反省に旧態依然の施設依存型のごみ処理に巨額の予算をつぎ込もうとしているのはけしからん」「まずは町として真剣にごみを減らす努力をし、その上で本当に必要な施設だけを作れ」というものだった。その批判の内容を「まったくの門外漢兼一個人」として読んだ自分は、「それなりに的を得た内容で、普通に賛同できる=ぜひそうしましょう♪」という感想を持った。

驚いたことに、そんな前向きな感想を持ったのは自分だけだったようで、上司も先輩も「こんな的外れな文句を言われても…」と頭を抱えているようだった。けれども、その問題の背景(法制度、近隣自治体との経緯、その分野の慣行、積み上げてしまった過去や投入してしまった予算など)を少し学んでみると、それまでの経緯にはそれなりの必然があることも分かってきて(もちろん、その過程にはきっと様々な組織的制度的不作為や非効率だって存在したものと推測されるので、あくまでも「それなりの必然」としか言えないのだけれど)、いまさら、そんなに簡単に住民の要求どおりに政策を転換させることはできないらしいということが分かってきた。

そんな内部事情を知ってから、改めて住民の批判を見てみると、「結構無理な要求だよなぁ」という印象も出てきた。上司や先輩はかなりの緊張感とストレスを抱えながら、突然降って湧いたような批判への対応に奔走し、緊急説明会で罵倒される日々を過ごしていたけれど、たぶんそんな対応さえもが「火消し・口先だけの弁解に終始している」と取られたのかもしれない。住民の批判は日を追うごとに激化し、ついには上司や先輩がネット上で「町民の声を無視する腹黒い役人」とばかりに実名批判される事態にまで発展していった。

ごく身近な仲間が、「普通に純朴に仕事をしているにも関わらず」、公然と悪者に仕立て上げられるのを目の当たりにし、自分は戦慄を覚えた。本人たちは「こんなの気にしない」と強気を通していたけれど、自分は正直、「こんなことがあってよいのだろうか」と愕然とした。魔女狩りか、あってはならない不条理の世界に触れたような気がした。いやもちろん、社会一般の目から見れば、たしかに我が役所は、全般的な非効率や、能力不足や、怠惰や、事なかれ主義や、地元のつまらない利権争いや、組織内のどうしようもない権力闘争や、決して言い訳できない様々な腐敗に満ちていたかもしれないし、先進的なエリート住民が望むようなリベラルな発想などほぼ皆無の職場だったかもしれない。それは決して感心できることではなく、それを外から見る人間が「この不届きな役所を正さなければ」と思ったとしても当然なのだが、それとは別のところで、間抜けな人情論に聞こえるかもしれないけれど、「いやそれでも、この人たち(=自分の上司や先輩)は決して悪者ではないし、罪人ではない」と思った。自分の上司や先輩は、問題山積みの役所にあっては、むしろ前向きに頑張っている有能な人たちであったし(先進的なエリート住民が求める高い基準には満たなかったかもしれないけれど)、仕事の進め方だって、罵倒されるほどに非常識とは思えなかった。少なくとも意図的な悪意などは絶対になかったし、彼らの常識の中では「これが進むべき道」という道を進んできたに違いなかった。

一般論として、役所の環境部局の善意の人材に問題があるとすれば、それは「そこまで突きつめたエコや効率主義にふれたことなどなく」「既定路線以外の道があるなどとは夢にも思わなかった」ということが往々にしてあるのではないかという気がする。住民側からすれば、「それこそが怠慢!」ということになるのかもしれない。「そんなことでは、民間ならすぐにクビか倒産だ!」と。それはたしかにそうなのだが(そして改善されなければならない問題なのだが)、同時に、そんな局面を乗り切れる優秀な人材を備えたトップ企業の論理を地方の小さな役所に持ってこられても…と思う。もちろん、理想的にはそんな人材を備え(あるいは育成し)、町政をより良いものに変えていくスピード感あふれる役所が望まれていることは分かる。でも、現実問題としてそうとは限らない役所で、新しい人材をどんどん投入する余裕もなく、既存の体制で何とかしのいでいかなければならない中、「変われない職員」或いは「変われなくなってしまった職員」の能力不足(=うまく住民が納得するように仕事を進められないこと)を罵倒するようなやり方は、語弊を恐れずに言えば、何だか強者(=能力ある住民)による弱い者いじめのようにさえ思え、いつも悲しい気持ちになった。

満足な成果を出せないのに税金で十分な給料を得る公務員の存在を擁護するわけではない。もっと能率をあげる組織的努力は、確実に必要だろう。それでも!ある一線を超えて「人の能力の不足を責める」ことは倫理的に許されない気がしてならない。これは、発達障害による能力不足を抱えて生まれた長男を見て、とりわけ強くそう思う。発達障害などなくたって、人はみなグラデーションのような能力のでこぼこを抱え、育った環境や教育によって相当程度の限定を受けているのだ。求められるレベルに能力が満たないからといって、エコやリベラルな思想に理解を示さないからといって、究極的にはどの程度その人本人に責任があるのだろう。

しかも、これは内側に入ってみた人にしか分からないと思うけれど、どんなに小さな町であっても、町政というものは巷で思われているよりもずっと複雑で、いざ何かを改革しようとすれば、こっちから文句が出、あっちから文句が出、不確定要素には風当たりは強いし、よほどうまいバランスを取らなければ、なかなかそんなに簡単に現状を変えられるものではない。自分自身、もっとしっかり「新しい成果」を出せなかったことを悔いているし、それは自分の能力不足・努力不足によるわけだけれど、それでも「外側」から声高に役所批判をする人たちのうち、一体何人が、いざ内側に入ったとき、そんなうまいバランスを取って、地に足の着いた改革を実現できるかと言えば、かなり疑わしいのではないかと思う。「既存のごみ処理ではダメだ」と口で批判するのは簡単だけれど、実際に既存のごみ処理を「いきなり」「無理やり」崩そうとすれば、たちまち大問題に発展するか、大問題を避けるために担当を外されるのが関の山というところだろう。

そして、なぜ改革がスムーズに進まないのかということを突きつめて行けば、結局は「それが大多数に望まれていないから」ということに他ならない。たとえば、みんなが「ごみの焼却なんて嫌だからリサイクルしましょう!」と思っているなら、役所だってリサイクルを推進する方がラクだから、そうするに決まっている。現実には、大多数の人々はそうではなく、無関心だったり、いろいろな理由をつけてリサイクルの問題点を指摘したり、協力を拒んだりする。性質の悪いことに、「口で言っていること」と「実際」がちがうことも多々あり、口では「なぜ役所はリサイクルを推進しないのか。けしからん!」と言っていても、いざリサイクルするとなると、「そんな面倒な負担を住民にかけるのはけしからん!」と豹変する人が(誠に残念ながら)フツーに存在する。こんなややこしい現実があるから、役所は爽やかにリサイクルを推進するわけにもいかず、しかしまったく推進しないわけにもいかず、いつも煮え切らない(まさに口先ばかりの)格好悪い姿を余儀なくされるのだ。

最近は地方公務員人気もあって変わりつつあるようだけれど、もともとが「超エリート」というわけではない役所の職員は、ある意味、そんな「多数」の平均的かつ保守的な住民の代表なのであって、ごく「少数」の先進的かつ有能な住民の代表ではない。エコを志向し、役所の旧態依然を嘆く人は、このことをよく認識しなければならない。敵は役所そのものではなく(役所自体にも悪い部分はたくさんあるけれど)、その背後に母体として存在する多数の善良かつ罪深い隣人たちなのだ(含・自分)。役所は良くも悪くも、住民の求める政策を実現することになっている。自分に言わせれば、「住民の求める政策を実現したくない」「阻止してやろう」と思っている非常識な役所などない。もし結果的に「住民の求める政策」が実現されていないとすれば、それは一方においては単に「むずかしすぎてできない」あるいは「どうしたらよいのか分からない」からだろうし(もっと真剣に努力することで目標に近づける部分は多々あるとは思うけれど)、他方では「そもそもそれが本当には(満場一致では)求められていない」からだろう。

住民からの激しい集中攻撃に、役所は大揺れに揺れていた。矛先になるのをみんなが恐れ、そんな糾弾を繰り広げる相手に対して、多くの職員が恐怖や怒りや反感を抱いているように見えた。約半数の職員が地元に住むローカルな職場である。その構図は自分に、ある日突然、村が敵と味方に分断されて壮絶な紛争に発展したルワンダのフツ族・ツチ族のことを連想させた。もともと明らかな悪意などなかったはずのところに、悪人が作られ、対立と敵意が生まれる。戦争って、もしかしたらこんな風に始まるのかもしれない、と思った。

自分は、この問題の主担当ではなかったので、それほど理不尽な思いはせずに済んだけれど、それでも時に「何できちんと仕事をしないんだ、この馬鹿が!」くらいのことを言われることはあった。そのたびに「いえいえ、僕は生ごみ処理も大好きな超エコな人間でして、目指す地平は皆さんとまったく同じですし、町の良き未来のために真面目に取り組みたいと思っているのです。今まで積み重なった町のごみ処理の問題はもちろん僕のせいではありませんし、それをどう解決していったらいいか、皆さんのために、皆さんとともに、これから考えたいと思っているんです!!」と言いたい衝動に駆られたが、もちろんそんなことが言えるはずもない。まぁ誠実に、できる限り聞く耳を持って仕事をしている限り、無差別に罵倒される回数はだいぶ減らせたが、それでも「こちら側(=町政の内側)とあちら側(=言いたいことが言える町民の側)はこんなにも絶望的に分断されているんだ…」というのはいつも痛切に感じた。同じように町の良き未来を目指しているはずなのに、どうしてこんなにもみじめな対立構造になってしまうのだろう。みんなが力を合わせたってまだ足りないくらいに大きな問題を抱えた現代社会を生きているというのに、こんな対立構造の中で、果たして我らが社会は立ち行くのだろうか。

しかし世の中というのはおもしろいもので、この住民の糾弾はさらに大きなうねりを作り出し、かつぎ出した新人候補を次の選挙で僅差で勝利させるに至った。結果的に、「既存のごみ処理ではダメだ」と問題意識を持った純粋な住民のパワーが、力づくで新しい扉をこじ開けたことになった。「物事には経緯というものがある」とか、「担当している職員が悪いわけではない」とか、分かったようなことを言っていたら、おそらくはこんな政策転換を促すようなパワーは出なかったことだろう。自分は素直に感服した。「このようにして、社会は変わっていくのか」と教えられたような気さえした。てのひら返すかのように、こんな変革の波を起こしてくれた住民の人たちへの感謝の念さえ生まれた。と同時に、いまだ未解決の大きな問いが自分の中に残った―「こんな風に悪者を作り出さなければ、社会は前進できないのだろうか」「こんな風にして実現するエコやサステイナビリティって、一体何だろう」。その答えの一部(=こんな風にして実現する政策転換の行く末)は、もちろん、その後の仕事の中で、自分の目で確かめることになる。(次回へ) 

2016.05.13 Friday

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