2016.05.13 Friday

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2012.12.19 Wednesday

料金交渉のストレスと深み

インド生活に不可欠なオート・リクシャー(Auto Rickshaw)。三輪の吹けば飛びそうなドアなし簡易タクシーで、猛烈に臭い排気ガスをブンブン出しながら、町じゅうを走っている。



人々には「オート」と親しまれ(かつての人力のリクシャーと区別するため)、中産階級の人々の日常的な乗り物として機能している。値段はタクシーよりずっと安く、そこらじゅうを走っているので、使い勝手もわりによい(当地では、タクシーは原則として使う1時間以上前に予約しなければならず、いわゆる「流し」のタクシーはいない)。

料金は、ずばり「事前交渉」。数年前にメーター制の導入が義務づけられたのに、不正なメーターの横行やら何やらで、元の木阿弥になってしまったのだとか。これが最初は本当にストレスだった。運転手はほとんど英語が通じないのに、必ず2倍近い金額を吹っかけてくる。どのくらいが相場なのかが分かるまでは、常に「ぼられる不安」がついて回り、大体の相場が分かってきたら、今度は逆に「うまく相場まで落とせないストレス」に悩まされる。これはインド人でも同じようなストレスを感じるらしく、みんな口を揃えて「リクシャーの料金交渉は本当にいやだ」と言う。「料金交渉がいやだからリクシャーに乗るのをやめた(バイクを買った、タクシーに乗るetc)」という友人も何人もいる。

実際のところ、金額は日本円にすれば大したことはない。チェンナイでは、初乗りが大体30ルピー(45円)、その後は1キロ10ルピー(15円)くらいのイメージなので、市内を動く分には決して恐れるに足らない金額なのだけれど、やはりインドの物価水準の中でほぼ毎日使うわけだから、ムダ金は払いたくないのが人情というもの。最近はだいぶコツが分かってきて、うまく相場まで落とせないとき、「じゃあ他のリクシャーを待つからいい」と強気に断るそぶりを見せると、3回に2回は向こうから折れてくる。

この料金交渉、実は便利な側面もあって、いったん事前交渉が成立すれば、あとはぼられる心配がない(たとえば、タクシーならば、メーター制なので、わざと遠回りされる危険性が大)。しかし、そこはたくましい運転手たち。走り出したあとで、「思ったよりも遠い」「道が混んでいる」などと難癖をつけては、「あと10ルピーよこせ」などと言いだす。これは本当に姑息で頭にくる。もちろん、こんな詐欺のような論理に屈するわけにはいかないので、「さっき○ルピーでいいって言ったじゃないか!」と押し問答。本気でブチ切れたことも数度。しかし、冷静になってみれば、わずか10円20円の世界で激怒しているわけだから、滑稽以外のなにものでもない。

ある朝。妻が子どもたちを学校に送り届けた際、運転手に「あと10ルピー」と注文をつけられた。妻が「約束が違うから、払わない」と言うと、険悪なムードに。困った妻は、ちょうど居合わせた同級生のお父さんに助けを求めた。すると、そのお父さんは、びっくりするほど冷静に時間をかけて運転手と話し合ってくれ、ついに運転手はさじを投げてそのまま立ち去った。しかし、そのお父さんが妻に話してくれたのは、「彼らには彼らの事情がある。私たちは時に理解を示さなければいけない」ということ。曰く、「彼らは生活が苦しい。10ルピー、20ルピーであれば、自分なら払う―それで彼らが満足するなら。」 

これは、自分としては驚きの世界観だった。もちろん、リクシャーの運転手たちの生活が苦しいことは分かっているし、10ルピー、20ルピーという金額自体はまったく取るに足らない。ただ、自分の中では、「約束を破る=フェアじゃない=いかなる場合も正当化されるべきではない」という論理が確固として存在しており、しかも、約束を破る運転手たちはいつも決まって不誠実なオーラを纏っているので、彼らが味をしめてしまわないためにも、決して言いなりになってはいけない、という感じを強く持っていた。その気持ちは基本的には今でも変わらないけれど、このお父さんの言葉を聞いたあと、たしかにそういう側面もあるんだよなぁ…と感じ入った。

たとえば週末、家族でランチに出かけるとき。10ルピー、20ルピーを値切ってリクシャーに乗り、1000〜1500ルピーのランチを食べに行く。その金額のあまりの違いを思うとき、言い訳できない恥ずかしさが身をよぎる。一体、リクシャーの運転手は一生に何度1000ルピーのランチを食べる機会があるというのだろう。なぜレストランには1000ルピー払い、チップとして数十ルピーを当然のように渡すのに、リクシャーの運転手には10ルピー、20ルピーを値切ってしまうのだろう。もちろん、乗り心地は最悪だし、すさまじい排気ガスで環境にも悪いし、決して感心できたサービスではないのだけれど、それでもこれを労働力の搾取と言わずして何と呼べるだろう。彼らの月給は、土日も休まず毎日排気ガスの中で働いて、日本円にしてわずか2〜3万円―インドでは生活が不可能な金額ではないらしいけれど、正直、自分はその何倍もの金額を手も汚さずに受け取り、家賃に5万円以上、食費に2万円弱、学費に1万数千円、更にその他の生活用品購入や医療や交通費や外食や遊行費を合わせると、出費は毎月13万円をくだらない。日本にいるときに比べれば、遥かに質素に暮らしているつもりの我が家だけれど、やはりこの凄まじい格差社会の上に過ごしている罪深さを感じざるを得ない。不誠実な運転手たちに好感を抱くわけではないけれど、その背後には「不誠実にならざるを得なかった」背景というものがあるのだ。

そんなことを考えて、「10〜20ルピー余計に払ってもいい」「いやむしろ払うべきなんだ」と思ったら、少し料金交渉がラクになった。とは言え、無防備に相手の要求に応えることは禁物で、常に牽制は必要となる。「相場を知っているんだぞ」ということを示すために、低い金額から交渉を始め、「このくらいが妥当」と思う金額プラス20〜30ルピーの範囲で交渉を終えられれば上々。

この料金交渉、経済学的にはなかなか理にかなっている面もある。均一価格ではないので、通勤時間帯は需要増に合わせて自然に相場がつりあがるし、夜は夜で、リクシャーの価値があがるので、やはり相場が上がる。一方、同じ金額を提示しても、喜んで乗せてくれる運転手もいれば、断る運転手もいる。かなり高い金額を提示しても、「そちらの方角には行きたくない」と乗せてくれないこともしばしば。こちらはこちらで、顔見知りの運転手には少し高めの金額を払ってでも「安心を買いたい」という気持ちもある。結局のところ、客が「払いたい対価」と運転手が「受け取りたい報酬」は、人によって、また、その時々の状況によって、毎回違うわけだから、杓子定規に値段を決めずに、交渉によって双方が納得する地点を探るというのは、理論的には効率的である。もちろん、交渉はきわめて限定された状況下で行われるので(いくら頑張っても交渉はせいぜい2〜3台で終わらせたい)、決してこのシステムがうまく機能しているというわけでもないのだけれど(そもそもこのストレスを何とかしてほしい)、これはつまり、「相場まで落とそうとしない不届き物の運転手に腹を立てる必要がない」ということも意味する。最初のころは、「何でアディヤールまでは60ルピーもあれば十分なはずなのに、100ルピーと言って譲らないんだ、この恥知らずの運転手は!?」などと怒り心頭に達していたが、つまり彼にとっては、「アディヤール行き」は100ルピーくらい受け取らなければやりたくない仕事なのである(たぶん、街の別の地域を主な仕事場としているのかもしれないし、或いは今は疲れていて、少し休みたいのかもしれない)。これは自分にとってはなかなか新鮮な視点で、毎回の料金交渉には人々の異なる価値感や労働の対価がビビッドに映し出されていると思うと、世の中の広さや多彩さを実感する契機となる。

…ということで、だいぶ慣れてきたつもりの料金交渉ではあるけれど、やっぱり可能ならば避けて通りたい。しかし、リクシャー抜きでは1日たりとも生活が成り立たないインド・ライフなので、今日も果敢に料金交渉するのです。 


↑運転手のひざに乗せてもらい、一緒に運転する長男K。日本のタクシーだったらありえない光景。普段は高い金額をふっかけてくる運転手が、純粋な善意でこんなことをしてくれる―その落差が、これまたインドの魅力。左下は、使われずにすっぽりとビニール袋をかけられたメーター。 

2016.05.13 Friday

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